この土日、西教寺報恩講が勤まった。
何年ぶりだろうか?ここの報恩講で桜が咲いていたのは。。僕の記憶では長田先生が来られた2014年以来じゃないのかな?と思って写真を振り返ったら、一昨年も咲いていた。僕の記憶なんていいかげんなもんだ。
御講師は5年目の日野賢之先生。今年もガッツリと2日間学ばせていたただい。
初日はテーマがあったのかな?なんとなく「癒しと慰め」みたいな感じで話が始まった。
ここの寺でのお話としては初めて唯識について触れられた。
法相唯識、法相宗、唯識論、成唯識論もうついて行くのに必死だった。。
刹那という言葉が出てきたのだが、おそらくこれのことだろうか??
唯識思想 7.存在の三つの形態(三性説)と転識得智(悟り)
さらに、大阪建立の「一生涯をこころやすく過ごし、栄華栄燿をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、」末代無智から「在家止住」、篷茨祖運(ほうしそううん)先生のお話など多岐にわたった。最後話が飛び過ぎて結局ついていけなかった。。。
そして夕食を囲みながら会話の流れでずっと疑問にあった、神社信仰の事をお伺いして、翌日は「神様」の話をしようという事になった。
そして2日目。
神社、神様の話となると、当然二帖目第三通「神明三箇条」という事になる。
過去に先生がこの「神明三箇条」に触れられたのは、終わりが「あなかしこ、あなかしこ」では無く「件(くだん)のごとし」であるという事だけ。内容に触れられるのは初めての事だ。
「天地」「氏」「勲」三つの神様と「鬼神」、そして「神明三箇条」の
一 神明と申すは、それ仏法において信もなき衆生のむなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめしてこれをなにとしてもすくはんがために、仮に神とあらはれて、いささかなる縁をもつて、それをたよりとして、ついに仏法にすすめ入れしめんための方便に、神とはあらはれたまふなり。
さらには明治6年廃仏毀釈により明治政府より東西本願寺に対して、「一言でも神様と書かれている御文を門徒の前で読んではならない」と通達があったというお話。。それにより現代のような神仏を混同する形に流れてしまったと。
最後に一言、「なぜ、明治政府が本願寺を恐れたのか?」とまた答えを教えてくれなかった。来年までに本を読んで勉強しとけという事か。。
と、ざっくりと書いてみたがとてもじゃないがすぐにまとまらない。これからゆっくりと咀嚼してみよう。そしてまたまとまれば書いてみよう。
さらに今年読めと言われたのは、「亀井勝一郎」「四方田犬彦」「大田昌国」「金井恵美子」など。宿題が多すぎる。無理だww
という事で、来年も日野先生に来ていただく事になりました。。南無阿弥陀仏
090-3990-0645