7月3日付けの朝日新聞の記事が目に留まった。30年前の記事を掘り起こした物らしいが、30年前にいち個人としてこのような活動をされておられた事に関心した。
昔のスクラップブックを繰り、30年前の参院選比例区に「原発いらない人びと」というミニ政党が出ていたのを知った。あのとき街頭で「脱原発」を訴えて敗れた元候補者は、その後の「3・11」をどう受け止め、間近の参院選にどんな思いを抱いているのか。
「元候補者・柴田由香里さん」
1989年7月24日付朝日新聞夕刊の記事「シロウト候補奮戦記」。JR三ノ宮駅前で柴田由香利さん(当時33)が笑顔を振りまいている。もんぺに草履ばきという装いが目を引く。
芦屋市立中の音楽教諭を辞めて立候補。夫は猛反対したが、最終的には折れた。子連れで駅や公園を演説して回り、得意の歌で反原発を訴えるも、及ばず。借金返済の戦いがこれから始まる――と記事にある。
「そうそう、こんなことやってた」。63歳の柴田さんは懐かしそうに記事を見返した。19年前、神戸市の後に住んだ兵庫県明石市から和歌山県串本町へ移住。今は夫と2人で暮らし、田畑で米や野菜を作る「自給自足」生活を送る。
柴田さんが原発に関心をもったきっかけは、86年に起きた旧ソ連・チェルノブイリ原発事故。当時1歳と3歳の娘がいた柴田さんは危機感を抱いた。脱原発を訴える手書きのフリーペーパーを作って配ったり、デモや集会で発言したりするうちに、国政への立候補を決意した。
家族の反応は?
「夫はずっと反対。記事では最後に折れたように書かれているけど……」
柴田さんによると、「市民活動で政治を変えることはできない」という夫との意見の相違は埋まらず、選挙後もしばらくぎくしゃくしたという。街頭の反応も薄かった。原発の危うさを訴えても「消費税の方がもっと切実な問題なのに、なぜ原発だけ」と聞かれ、チェルノブイリ事故を語っても「遠い国の特別な出来事」との受け止めが大半だった。「原発いらない人びと」の比例区得票は16万1523票(得票率0.29%)にとどまった。30年前の記事の中で柴田さんは消費税の波に飲み込まれてしまった」と敗戦の弁を語っている。
2011年3月の東京電力福島第一原発事故。「おそれていたこと」がついに起こった。日本が初めて深刻な事故の当事者となり、脱原発を求める世論が一気に高まった。自分たちの訴えが人々の上を素通りしていった80年代の風景とは一変した。
事故後、柴田さんは福島の子どもたちを保養に受け入れている。年5家族ほどがやって来て、一緒に田畑を耕し、海で遊ぶ。伸び伸び駆け回る子どもを見て、親たちも楽しげだという。
だが、事故から8年以上がたち、福島以外での「風化」が進んでいると感じる。「私たちが30年前に変えようとしたことは、結局、今も変わらないままなのよね」
一市民がどれだけ頑張っても、何かが変わることはない。そう言う夫とは30年前にけんかをしたが、今は柴田さん自身も「変える」難しさを実感する。
一方で柴田さんの「脱原発」への試行錯誤は続く。太陽光を使ってお湯を沸かし冬場は薪で風呂をたく。自宅に冷蔵庫は置いているが、テレビや電子レンジ、炊飯器もない。携帯電話ももたない。午後8時を回ると電気を消し、ろうそくの明かりで本を読む。自然の中での暮らしに興味をもつ国内外の若者を自宅に招き、再生可能エネルギーの活用や農業を組み込んだ循環型生活を体験して貰う活動に力を注ぐ。
「政治家ではなく一個人として、自分の身の回りの事から取り組みたい。一人ひとりの努力によって、変わることもきっとある」
落選後の30年間、選挙には欠かさず行っている。投票に迷うことも多いが、今年も足を運ぶつもりだ。朝日新聞 「30年前、もんぺで「脱原発」訴えた ろうそく灯し今も」
一人でも多くの方に読んでもらえたらと思い、ここに残しておく。
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