今日の朝日新聞を読みながら「折々のことば」というコーナーが目に留まった。
「折々のことば」 鴛田清一 1781
学校というものの中では、教師に学ぶよりは、友人に学ぶことの方が多いはずで、その友人が同学年に限定されるなんてつまらない 森毅(つよし)友だちといえば同級生、会社なら同期生。つまり同い年。そしてほとんどが同性。あとはみな上下関係。なんと窮屈で退屈な社会に生きているのだろう、数学者は言う。
うんと年の違う、できれば異性と、友人になれたら、世界は一挙に広がるのに、もったいないこと。これ、けっこう由々しき問題である。『ものぐさ数学のすすめ』から。
2020.4.8
なんども書くが今うちの子どもたちの小学校は全校生徒37人、各学年ひとクラス4~8名である。
僕自身は引っ越して来た時から、すごくありがたい環境だと思っていた。
ところが元々の地元の人たちはこれを可愛そうな環境だと思っているらしく、合併推進派のほうが人数が多い事に昨年あたり気が付いた。まあ色々な事情があり今すぐに合併する事は無さそうではあるが。
合併推進派の方の意見としては、「競争力の低下」が多く、他に「社交性の欠如」みたいなもんもあったと思う。
だが「社交性の欠如」なんてもものは全く無いと僕は感じている。むしろ休み時間になると1~6年の全員が一緒に遊んでいる。男子と女子に分かれる事もあるだろうが、うちの子は一番近所の友達が2学年上の女の子で、その子と一緒に良く遊ぶ。また、その女の子の友達が混ざる事もある。通学も男女に分かれる事は無い。
恐らく学校でも仲良くしているという事だろうと思う。
もちろん中には嫌いな子、苦手な子もいるらしい。それはそれで良いのだ。全員誰とも仲良くなんて事はあり得ない。だけど、集団あるいはグループになる時にその嫌いな子、苦手な子の誰かが仲間外れになる事もないようだ。
これは絶対数が少数だから起こりえる事なのだろうと思っている。いち学年4~8人の中で誰かを仲間外れにすると必ず先生が気が付く。学年なら一人の先生だが、それが全校生徒37人になると、6人、いや校長先生、教頭先生をはじめとする、全員の先生の目が行き届く。そこで誰かを仲間外れになんてできようが無いのだ。
先生の目が行き届くのも、少人数学校の良い所だと思っている。ただこれは、裏を返せば「集団の中に埋もれる事ができない」という事にもなるのだが。
長くなったが、結局何が書きたかったかというとだ、「折々のことば」の中にある年齢性別の垣根の無い友だち作りは少人数の学校でこそ可能であるという事だ。
今、子どもたちが行かせていただいている小学校は本当に有難い場所なんだと改めて感じる事ができた。感謝しかない。ありがとうございます。
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