考える事とか考え方とか

船津の歴史

今日たまたま受け取った農協からの配布物。JA兵庫西2023 8月船山支店ニュースに気になる記事が載っていた。

室町時代の船津
蔭山荘船津村は、中世後期の室町時代には船津村八幡神社の神主中村氏によって在地小領主型の村落を形成していた。ところが戦国末期の天正19年(1591年)に船津村八幡神社に社殿の造営があり、その時の神事と祭礼に催物を奉納した氏子の村々神東郡六ヶ村(御立村、宮脇村、三又村、下垣内村、上野村、中野村)と神西郡六ヶ村(岩部村、土師村、野田村、溝口村、髙橋村、中寺村)の12ヶ村は、室町~戦国時代に畿内近国の農村地帯に結合された村ヶであった。これらの村の中は、一般名主や小百姓層の胎動によって新しい村落(集落)として形成され、自然村として生まれていった。

これって何かしら文献があったのだろうか?もしあるならば、なんという文献なのか知りたいが、もしご存じであれば教えて下さい。
中々興味深い記録だな。元々正八幡神社の祭りに溝口の屋台が来ていたのは伝わっているが、野田や髙橋まで入っていたのだろうか?そもそも神西(これもなんと読む?じんさい?じんせい?かんさい?)六ヶ村というくくりが存在したんだな。そこに、野田と髙橋があって、西治や恒屋が無いのは、当時まだ村が存在してなかったのかな。
さらに中野や上野がこの当時八幡さんの氏子だったという事は、上野と中野のお宮ができるのはもっと後の時代だということか。
もっと色々知りたいと思うが果たして文献に出会えるだろうか。

9月13日。本日JA兵庫西2023 9月船山支店ニュースが届いたが、続きがあった。

室町期の船津
御立地区字安戸に通称「市場条(所)」という所がある。もとは字地名であったかもしれないが、おそらく室町・戦国期の一時期にここに市場が開かれていたのであろう。この位置は、船津村八幡神社と船津村の豪族屋敷「御立」と西の三又地区「西福寺」の三点を結んだ交差点付近にあたる。この「市場所」の中央道路沿いの一石三段六地蔵の傍らには小さな二尊像の石の地蔵像が祀られている。

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moja
昭和47年生まれ。生まれた時からカープファン。 姫路生まれ姫路育ち。現在は相生市矢野町榊。 パソコン販売・修理・組立、出張サポート、ホームページ制作・WEBデザインなど。 奥さん1人と4男の父 真宗門徒
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