いよいよ、半月後にキャンプイン。球春が幕を開ける。
「田辺一球 広島魂」では既存メディアで得れない独特の情報がてんこもりだ。月額278円で、キャンプ情報も田辺一球独自目線で各選手の状態を解析される。
現在は特別企画「新井貴浩 絵本出版記念」と題して、「空に向かって打て!~ひたむきな野球少年が「キング」になるまで~が連載中。そして365日毎日更新されるコラム「赤の魂」でもまた。。
1月13日付けのコラム赤の魂から
燃え盛る火柱に挑む
新人。
可能性は無限で未来は輝いている。
その輝きが増すのか、鈍るのかふたつにひとつ。そして時間は残酷で、毎年同じように入団してくる“新鮮力”を上回る財産がなければジ・エンドとなる。
鹿児島県の最福寺。2泊3日の護摩行を終えた堂林の場合はどうか?
「何度も断った」とは新井貴浩の話。堂林の護摩行“参戦希望”について簡単には実現しなかったことをほのめかした。
甘いものではない。と同時に護摩行で自分を変えるためには、荒行に臨む心構えとそれまでの“実績”も大事になってくる。
新井貴浩が最福寺を訪ねるようになったのは阪神・金本監督の背中を追いかけてのものだった。その金本監督、現役時代の1999年に知り合った池口大僧正に誘われた。
この頃、同じように最福寺を訪ねた人物がいる。今は薬物の恐怖と闘う毎日に身を置く清原和博氏だ。
だが清原氏は長くは続けることができなかった。一方の金本監督は気持ちの強さで「火だるま寸前」となりながら「気持ちで火を押せるようになった」(池口大僧正)。
当たり前の話だが決してスマートなものでもないし、ある意味常軌を逸してもいる。新井貴浩も石原も通い始めた当初は手や顔にひどいやけどの跡や水ぶくれがたくさんあった。
金本監督は初めての護摩行を経験したのはシーズン連続フルイニング出場記録をスタートさせた1999年のオフだった。その後は2010年まで12年連続でフル試合出場を続け、そのあと2年間プレーして引退した。
数々の記録はまさに護摩行とともにあった。新井貴浩もその後を追ってきた。
新井貴浩がなぜ堂林の申し出を断ろうとしたのか、その理由は聞いてはいない。
だが、聞かなくても分かる。10年以上続けないと意味はないし、それは口で言えるほど容易いことではない。
金本監督が護摩行を始めたのは31歳の時だった。新井貴浩は28歳となるシーズンを前に「四番もレギュラーも失格」の烙印を押されかけた時だった。
090-3990-0645